起源についてはなんら文献の明細は不明ですが、今より約350年前当地では新発田藩の溝口藩領にして藩の
財政を保つ等大々的の開墾がなされて米・麻の産地となり、遠く、京、大阪、東北の金沢等と取引があり
又酒田市より船頭が藩米輸送船を入れ、信濃川より刈谷田川にとり入れ今町が船積荷処となりました。
三南古志の米が積み出され、当地今町は200戸近い町となり商工物産も外藩国取引がおこなわれました。

当地へ信州の旅商人がたまたま端午の節句に刈谷田川堤防上で、大凧を作り打ち揚げたという時より天明年間
(約170年以前)刈谷田川堤防の地固めの一方法として行われて以来、年中行事となったと伝えられています。

江戸末期、弘化四年には戸数550戸を有する地方有数都市となりました。それより地主、大商店等で
使用人の慰安の為多額の費用を投じて各組を作り技を競ってより年々盛大になり、青壮年の意気は益々
向上して明治初期には、初代知事の凧見物もありました。

大小の凧合戦が展開して以来、大正に入り実業協会の活動により、遠く京阪の客を迎え盛況を見るに到り
当時今町大正館で今町の凧造り師に依り益々大凧が製作され100枚張・200枚張が製作されました。

昭和4年春、北原白秋に委嘱して 「今町凧民謡」 が出来上がり、舞踊大家 花柳徳次女史 の振り付けで
舞踊完成して催し発表にあたり、民謡の作曲家 町田喜章氏 の指揮で今町芸者連が東京愛宕山放送局で
放送を行いました。
又、レコードで吹き込みをやるやら、凧の文化展を行い
かくして 池部均氏 他5名の漫画家を招待して
宣伝及びニュース等が大々的に世に宣伝されました。

そうして、医界元老で今町出身の 入沢達吉博士 は
大正14年数十年ぶりにこの凧合戦を見物されました。

今の凧合戦の形態となったのは、江戸時代の天明年間より
行われた刈谷田川の改修の堤防を踏み固める為に
行って以来年中行事として今に至るといわれています。

今の凧合戦は、年々様々な絵柄や色彩を用いた凧が
大空狭しと駆け巡り、その壮大さと優美さで
ますます盛況さを増してきています。

今町・中之島の凧合戦は、合戦時にロープは真っ直ぐ引きません。
この、キャラという道具を使いロープの方向を代えて堤防沿いに
引き合います。

中之島・見附インターを降りて国道8号線を新潟方面へ

見附駅からはバス・又はタクシーをお使い下さい。

合戦時の使用用具 各組とサジキの位置 合戦の場所 横神○組について

揚げ糸は、ナイロンロープの10mmの太さです。長さは約200mの物を使います。

糸付け糸・あぶ糸は麻製の4mm〜5mm位の物を使用します。

「 越後今町男の盛り、凧の戦は意気でやる 」と凧民謡で唄われている端午の節句
(当時は6月5・6・7日)の3日間守門、弥彦の霊峰の眺望せられる。
風薫る刈谷田川畔、両岸に対時せる争覇の意気に燃ゆる今町の若人により
繰り広げられる大空の決戦譜凧合戦こそは血湧き、肉踊る壮絶そのものであり
大空に描く、100枚張りの大凧の絡み合う決戦は一瞬概に勝敗を決してこの
壮快味は、全国にその比を見ない。年中行事として余りにも有名ところであります。
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